ある小国のものがたり

ある小国のものがたり



ある小国のものがたり


 18世紀後半から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパの西部は受難の時代となった。その主な原因はフランスにある。フランス革命や、ナポレオンの遠征は、周辺諸国――特に大きな力を持っていない小さな公国や王国――に大きな影響を与えた。小さな国は、より大きな国が創り出す歴史の渦に振り回されざるを得なかったのだ――

 1804年、4月初頭――
 フランスのわずか北にあるフェリセトリア公国は咲き乱れる花に酔いしれていた。花は、この国の名物であり、主要産業でもある。この季節が、一年中でこの国を一番美しく見せる季節だった。公国の支配者であるフェリセトリア公爵の居城、ブルーメベルクの周囲も咲き乱れる花に囲まれていた。
「公爵、何を見ておいでですか?」
「わからない? 外の花は綺麗よ……なのに――」
「確かに。貴女様の仰るとおりです。人の欲というものは際限のないものなのでしょうか……」
 フェリセトリア公国の公爵は女だった。数年前に父である前公爵が死に、その時母は既に亡くなっていた。そして、一人っ子だったがために公女マリーウェザーが公爵位についたのだ。
 彼女の側にいるのは、親衛隊長のグレール・ブルーラハム。マリーウェザーが最も信頼している側近だ。親衛隊長という職のこともあって、グレールは常にマリーウェザーの側に控えていた。
「フランスはどうなるのかしら。ナポレオンが東に攻めてこないといいけれど……」
「……そうもいきますまい。ただでさえ、フランスの革命の影響で民衆たちの間には不穏な動きがあります。これからは、よほど注意していないと大変な事態になるかも知れません」
「そうね……。それでもわたしはわたしなりに民衆のことを思ってるつもりよ。マリーアントワネットみたいな事はしてないわ――それでも?」
「ええ。民衆――特に近頃影響力を持ち始めた商人たち上級市民にとっては、貴族という存在そのものが邪魔なのかも知れません。……どうせ貴族を倒したところで市民の中から独裁者が出るのが『おち』というものなのでしょうが」
 マリーウェザーは窓際から、部屋の中心に向かって歩みを進めた。10メートル四方ほどの部屋には、美しい彩りのペルシャ絨毯が敷き詰められている。半年ほど前のマリーウェザーの誕生日に、東方から来た隊商の一人が彼女にプレゼントしたものだ。
 彼女は部屋の中央におかれている椅子に腰掛けた。いかにも疲れた様に首の力を抜く。「わたし、ちょっと寝るから。――仕事はまたあとでね。もう疲れちゃった」
「では、私はしばらく街にでも出ております」
「……べつに、ここに居たっていいのよ?」
「……遠慮させていただきます」
 マリーウェザーは頬を膨らませた。
「――まあいいわ。また後でね、グレール」
「はい」
 グレールは先ほどの窓と反対側にある扉に向かって歩いた。扉を後ろ手に開け、マリーウェザーに一礼してから部屋を出た。その後ろ姿をみながら、マリーウェザーは思わず呟く。
「もーちょっと、普通に喋ってくんないなかなぁ……」

 公爵家の家名を冠したフェリセトリアの街は、公国の首都とはいえさほど大きい街ではない。人口も5000に満たなく、そのほとんどを『農民』階級ではなく『市民』階級が占めていた。
 フェリセトリアの階級制度は、ルイ王朝時代のフランスやそのほかの大きな王国と比べれば厳しいものではないが、それでも一応存在する。貴族、僧侶、上級市民、下級市民、農民……そう言った階級の人々は、生まれたときから親の階級を引き継ぐ。……もちろん僧侶は別だ。
 グレール・ブルーラハムは下級市民の出だった。学校も、下級市民ばかりが集まった学校を出ている。16の時に軍に入り、一気に頭角を現した。彼が公爵の親衛隊の一員となったとき、一部の貴族の中からは、
「栄光ある親衛隊のメンバーにそんな身分のものを加えることは許されない!」
 そう言った声があがった。しかし、グレールの剣の腕と軍事的な才能は得難いものだった。そしてまた、彼は前公爵――つまりマリーウェザーの父親――のお気に入りの人間でもあった。
 この事件は公爵が、グレールに爵位を与えることで表面的な解決を見る。しかしそれでも、彼に爵位を与えると言うこと自体が気に入らない貴族も少なくなかった。
 そして公爵の死後、グレールはマリーウェザーによって親衛隊長の地位を与えられ、市民出身としては最高の地位にのぼりつめた。
 グレールの能力そのものは認められているので、このことについて表だってなにか異議を唱えるものは貴族の間にもいなかった。だが、裏では相当な確執があったことは事実だ。
 いまのところ、グレールはそんな立場をものともせず任務をこなしていた。彼にとって、ときどき与えられる休暇は嬉しいと共に、不安でもあった。自分がいない間になにかが起こらないかと思ってしまうのだ。それでも与えられた休暇は楽しんで、旧友の下に訪れることが多かった。バーナム・ミューラルもそんな旧友のうちの一人だった。
「……グレールか? 久しぶりだな」
「商売の方はどうだ?」
「まあまあだ。お前から公爵に頼んで、もう少し税金を下げてもらえたら、もっと良くなるだろうが」
「じゃあ無理だな。お前の税金も軽くなるが、他のどの商人も税金が軽くなる」
「……それもそうだ。ところで、こんな真っ昼間にうろついていていいのか? お姫さまの護衛役だったんじゃなかったのかな」
「麗しきのお姫さまは昼寝中だ。少し暇請いをしてきた」
「そうか。ま、そんなところに立ってないで上がれ。お前が来てる間はいつも商売にならんから、その辺の椅子にでも座っていろ」
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味さ」
「ふん……」
 グレールは椅子に腰掛けた。この店に来る度に、この男も若いのだから、古本屋なんていう薄暗い店にいないで、少しは外にでればと思うのだが、それをバーナムに言っても聞いてももらえないのだった。
 バーナムはしばらくグレールの前から離れると、香りの良い紅茶を持ってきた。
「どうだ? この頃のお城の様子は?」
「あまり良いとはいえないな。――何しろフランスで革命が起こってから大臣連中も上の方の貴族の輩も神経質になっててね」
「そうか……」
「フェリセトリアがいくら自由な気風な国とはいっても、一度『自由』を知ってしまった民衆は締め付けられてると思うだろうな。俺は去年フランスへ行ったが、そんな奴ばかりだった――とにかく」
「堅苦しい話しは止めにしよう、グレール。久しぶりなんだ」
 話しを振ったのはお前じゃないか、と心の中で思いながらもグレールは黙った。真っ昼間の古本屋に入ってくる客などそうそういるのもでない。客の一人もいない店内に一瞬、気まずい空気が流れた。
「……そうだ。バーナム、公爵がお前に城仕えしてもらえたらと、いつもこぼしてるぞ」
「まだ言ってるのか? 俺は城仕え何かする気はない」
「ま、それは俺が言ってやってる」
 ようやく始まった雑談は長く続いた。グレールがはっと我に返ったのは夕方を告げる鐘が鳴ったときだ。
「――しまった。この時間じゃもう、公爵は起きてるな……」
「で、お前が何処行ったかと城中探し回ってるんじゃないのか?」
 バーナムは冷やかし半分に言う。
「……多分な。邪魔したな」
「お前なら、いつ来てくれてもいいぞ、ちょうどいい暇つぶしになる」
 じゃあな、と店をでる際に手を挙げて、グレールは走った。おそらく、起きたときに自分が側にいないと公爵は騒ぎだすだろう。……まったくあのわがまま公爵は。
 城門をくぐり、城の廊下に出るとそこにグレールのよく知った文官がいた。
「グレール! 何処にいたんだ?」
「ちょっとバーナムのところにね」
「やっぱり……さっきから公爵が探し回ってたぞ」
「今何処にいらっしゃる?」
「たぶん執務室に戻っているとは思うが」
「すまない」
 一言言って廊下を曲がり、階段を上ってマリーウェザーの執務室の前まで来た。グレールの姿を見て、その前で警護していた兵士が扉をノックする。
「誰?」
「グレール様が参られました」
 と、突然ドアが開いた。そして中からマリーウェザー本人が出てくる。
「何処行ってたのっ?」
「ちょっとバーナムのところに行っておりました。申し訳ありません」
「……どうしてわたしを連れていってくれなかったのよ」
「お休みになっていませんでしたか?」
「そうだけど……」
 グレールは部屋の中に入って扉を閉めた。
「しっかりとお仕事なさっていましたか?」
「……まだしてないわよ。これからしようとしてたのよ」
「では頑張ってくださいね」
「……もう」
 窓の外を見ると、夕日が空を朱に染めている。いつものように、平和な日が暮れようとしていた。

 11月、季節はもう冬である。春の間はあんなにも咲き乱れていた花も枯れ、ブルーメベルクは雪に覆われていた。これはこれで、美しい光景である。いつもの年ならこの雪に酔うこともできただろう。だが、今年はいつもと様相を異にしていた。城と、城下との間に緊張がみなぎっている。マリーウェザーが憂慮していた事態がついに起こったのだった。
 それはある侯爵家の一人の青年の愚かな行為に端を発していた。夏も終わりに近づいた8月の終わり、その青年は街を歩いていた。その日は前日からの雨がようやく上がり、久しぶりの晴れた空に、街には多くの人が出ていた。その青年も、室内の湿った空気を嫌って外に出たのだ。街で最も大きい通りを歩いていたとき、一台の馬車が彼の横を通った。そして不幸なことに、その馬車が跳ねた水たまりの水が青年にかかったのだ。その青年は叫んで馬車を止めた。そして中から御者が出てくると何も言わずにその御者を切ったのだ。目撃者は多く、この事件はさすがにもみ消すことは出来なかった。
 事件の次の日、マリーウェザーは青年を呼んで事件の詳しいことを聞いたが、青年は自分は悪くないと言い張る。しかし街には目撃者がいくらでもいた。青年は免罪されず、財産没収の上、貴族の称号を失って国を去った。被害者の家族には、十分な量の慰謝料が払われた。
 ここまでで、事件は終わるはずだった。
 だが、フランスでの革命の影響がまだ大きい時期だったのが災いした。市民――特に上級市民は貴族に対してあからさまな反感を見せている。まさに一触即発の状況だった。
 そんな中でもマリーウェザーは話し合いで何とかしようとしたが、無駄な努力だった。市民たちは全く聞く耳を持たなかったのだ。
「……どうしてこんな事になったのかしら」
「公爵が悪いのではありません」
「でもわたしの臣下の、それも侯爵が原因なんだから、わたしがしたのも同じ事よ」
 マリーウェザーはうつむいた。天井からつるされた蝋燭の明かりに照らされているとはいえ、冬の夜は暗い。薄い明かりに照らされた彼女の影が、壁まで長く伸びていた。その側に控えているグレールは必死に彼女自身を弁護する。
「でも実際のところ、貴女様は何も悪いことはしていません。それどころか、この問題でいちばん心を砕いて解決をめざしているのは公爵ご自身でしょう?」
「……グレール、あなたに判らないはずはないわよね。臣下の責任はわたしの責任よ」
「……」
 グレールは一つため息をつき、仕方が無いなという表情を見せた。
「判りました。わたしはわたしに出来る範囲内のことで全力を尽くさせていただきます」
 扉のところへ行き、外に出ようとすると後ろから声がかかる。
「何処へ行くの?」
「見回りです。すぐ戻りますよ」
 そういう声にも、マリーウェザーはドアが閉じる瞬間まで不満そうな表情を見せた。
 外に出て扉を閉めると、そこで警護していた兵士が一礼した。その兵士にグレールは小さく呟いた。
「今夜は気合いを入れて守れ。何があっても公爵をこの部屋から外にお出ししないよう」
「はっ」
 兵士は敬礼して遠ざかっていくグレールを見送った。
 公爵自身が弱気になっていてはいけない時期なのに……そうグレールは思う。いつ暴動が、革命が起きても不思議ではないのだ。少しは強気になってもらわなくては……
「グレール様!」
 後ろから突然、親衛隊の副隊長のアーリアス・ヴェルナーが走ってきた。
「大変です。街の様子が……」
 息も切れ切れに報告する。その様子から見てただ事ではすまないようなことが起こったようだ。
「どうしたというのだ?」
「市民たちが、武器を取って街の広場に集まりつつあります」
「なんだって!? それは本当か?」
「はい、この目で確かめました。その数2000あまり、市民の半数が参加しているようです」
「まずいな」
 グレールは拳を握りしめた。状況の変化が早すぎる。こんなに早くてはなんの対策も立てようがない……
「アーリアス、親衛隊を城の要所に配置しておけ。だが、決して市民を挑発するな。親衛隊の総数は250人、市民が2000以上もいるのなら勝ち目はない」
「はい、すぐに手配いたします」
 アーリアスは走っていった。にわかに場内が騒然とし出した。フェリセトリア公国では兵士は必要なとき以外、親衛隊というかたち以外では持たない。つまり必要なときに必要なだけ、市民や農民の間から徴兵するのだ。その体勢が、この危急の際に仇となっていた。
「どうすればいい……どうすれば……」
 グレールの頭の中はパニック状態になっていた。とにかくそれを少しでも抑えるために、状況を判断するために塔に登った。
 ブルーメベルクの見張り塔は、国内でいちばん高い建物だ。もちろん、街の全景が見渡せる。西の方向に大量の篝火の明かりがあった。その明かりに反射して、時折光るものが見える。
「まずい……」
 グレールが見ているうちに、光の群は城の方に向かって行進を始めた。ゆっくりと近づいて来るが、その数の多さは尋常ではない。
 グレールは走って公爵の執務室に向かった。
「公爵! 市民たちが……」
「もう聞いたわ、グレール。仕方のないことなのかしらね……」
「親衛隊に指令を出しははしましたが、あまりにも多勢に無勢です……」
「謁見室に行くわ」
「公爵!?」
 歩き出したマリーウェザーの後をグレールはついていった。次第に市民たちの鬨の声は大きくなってくる。緊張に包まれた、謁見室に行く途中の廊下でアーリアスが歩哨をしていた。
「――陛下! 何故こんなところにいらっしゃるのです? 危険です、早く……」
「うるさいぞ、アーリアス」
「しかし……」
「アーリアス……わたしの最後の命令だ。決して市民は殺すな。悪いのは彼らじゃない、私たちなんだ」
「陛下……」
 公爵の言葉に、アーリアスはうつむいてしまった。
「わかりました。有り難く、陛下の命、承らせていただきます」
 アーリアスは敬礼をして二人を見送った。
「公爵……今の命令は……」
「聞くな、グレール」
「……」
 謁見室には、武官と文官がすべて揃っていた。こういう事だったのか……思いながら、玉座に座ったマリーウェザーの後ろに、グレールは控えた。
「……よく聞け、わたしの最後の命令だ。逃げたいものは逃げろ、最後まで抵抗したいものはそうしろ、汝らの自由にまかす。これがわたしの命令だ」
 マリーウェザーがきっぱりと言いきった途端、場内はざわめきだした。
「私たちに、陛下を見捨てろと仰るのですか?」
「そうしたいものはそうしていい。すべて、お前たちの自由だ。だが……出来るだけ市民をあやめてはもらいたくないが」
「陛下……」
 場内のものはすべてマリーウェザーに向かって敬礼した。そして、自ら選んだ事を為すために、謁見室から散っていった。しばらくして、広い部屋の中はグレールとマリーウェザーだけになる。
「それで……公爵はどうなさるおつもりです?」
「わたしは……もう少し……」
「……?」
「グレール、あなたも行きなさい」
「公爵。わたくしにあなたを見捨てることが出来るとお思いですか?」
「そうね……」
 グレールは自らの腰に剣を佩いながら、
「下を見て参ります、この部屋は兵士たちに守らせますのでご安心を」
「一つだけ言わせて、絶対に市民は殺さないで。わたしは、あなたに人を殺させたくない。」
「……わかりました、お約束しましょう。では……」
 言うと、グレールは謁見室から去った。
 その直後のことだったが、市民たちが城門を破り、場内に乱入してきた。
「貴族を出せ!」
「俺たちの金を取って生活してる卑怯な奴等は何処だ!」
 叫びは場内を飲み込んだ。

 悲鳴が、場内にこだまする。乱入した市民たちは手加減というものをしなかった。グレールは城門近くの廊下で、アーリアスの遺体を見つけた。その死に顔は安らかだったが、死体はずたずたに裂かれていた。
 グレールの胸に怒りがこみ上げてくる。アーリアスが何をした? この城で今死んでいっている人たちが何をしたというんだ。爆発しそうになる思いは、それでもマリーウェザーとの約束によって何とか持ちこたえていた。
「とにかく一度公爵のもとに戻ろう」
 戦いの声は聞こえているが、まだ謁見室にはとどいていない。マリーウェザーは、玉座に座っていた。白いドレスを着て、宝石で飾られた宝冠をかぶって。
「……公爵?」
「帰ってきたわね。どうだった? 下の様子は?」
「1階部分はほとんど占拠されています。……アーリアスが死にました。ここに押し寄せてくるのも時間の問題かと思います」
「そう……彼を殺したのはわたしね」
 マリーウェザーは玉座から立ち上がって、グレールを手招きした。
「あなたに、最後のプレゼントがあるわ」
「最後の……?」
 マリーウェザーは両手で短剣を握っていた。黄金で装飾された、公爵家の証。それをマリーウェザーはグレールに手渡した。
「それでわたしを殺して」
「……公爵!?」
「これはわたしの自己満足。市民の手にかかって死ぬのだったら、わたしは玉座の上で、公爵として死にたい。斬首台にかかって死ぬ気はないわ」
「ですが……」
「グレール、お願い……」マリーウェザーはすがるような目で見た。「わたしはあなたの手にかかるのなら、文句はない……」
 そう言ってマリーウェザーは再び玉座に腰掛けた。グレールは両手に短剣を持ってしゃがみ込んだ。下を向いている。と、決心したように鞘を抜きはなった。
「申し訳ありません、公爵」
 グレールはマリーウェザーに重なるように短剣を突き立てた。光か輝く刃が、マリーウェザーの左胸に吸い込まれていく。マリーウェザーの顔が少しゆがみ、上に動いた。赤い筋が、刃の上を這った。
「あ……りがとう、グレール……」
「お話にならない方が……」
「……グレール……最後くらいは……名前で呼んで……」
「……マリーウェザー……さま……」
 かなり苦しいはずのマリーウェザーの顔が、少し微笑んだ。両手をグレールの頭の後ろにまわして、その頭を自分の方に引き寄せた。唇と唇が重なる。少しして、マリーウェザーは手を下げた。
「ありがとう……あたしの……さいごのお願い……きいて……」
 マリーウェザーはグレールの耳元でなにか呟いた。グレールは両目から涙をあふれさせながら頷いた。
 疲れたように玉座に寄り掛かって、彼女は呟いた。
「ね……えグレール……にんげんって……」
 そう言うと、目を閉じた。そしてその瞳は、二度と開かれることがなかった。
 グレールはマリーウェザーの身体を玉座の上にしっかりと座らせると、最後の願いを実行するために立ち上がった。

 謁見室の扉の前には、小さな部屋がある。入場する他国の使者などの休憩所となる場所だ。ついにその部屋に、市民たちが押し寄せた。
「執務室にはおられなかった。そうするとあとは謁見室だ」
 そういう男の声と共に扉が開け放たれた。20人ほどの市民たちの前に立ちふさがったのはただ一人だった。
「……バーナム……お前が首謀者だったのか?」
「……グレール……」
 市民たちの先頭に立っていたのはバーナムだった。グレールの無二の親友であり、マリーウェザーからも信頼の厚かった男。
「まさかお前が首謀者だったとは。それで公爵の誘いを断っていたのか?」
 普段なら怒りがこみ上げてきそうなと頃だが、グレールの感情は乾燥していた。その台詞に、バーナムはかえってむきになる。
「俺は初めは引き受ける気はなかった。だが親父が……」
「そうだな……」
「陛下はどうした?」
「陛下は……この奥におられる」
「お前を倒してから……というのか?」
「違う。俺がここにいるのはお前らに一言言いたかったからだ」
「一言……?」
「公爵の支配していた体勢を崩したんだ。今よりももっと良い体勢を作ってくれ、一般の市民も、辺境の農民もみんな幸せになれるような。……俺が言いたいのはそれだけだ」
「……グレール?」
「じゃあな、バーナム……」
 そういうとグレールは、懐から短剣を取り出した。
「あれは公爵家の……」
 そして一気に、それを喉に突き立てた。赤い血が迸り、床が染まってゆく。グレールはゆっくりと倒れた。その間、バーナムもまわりの市民たちも、動くことが出来なかった。
「……そんな……何も死ぬことは……! まさか……」
 バーナムは走って、謁見室のドアを開けた。開けた瞬間、春のにおいがした。
 謁見室には、色とりどりの花が散らばっていた。部屋中にあふれるその花の真ん中に、マリーウェザーはいた。玉座に座り、胸に一輪の真っ赤な薔薇をさしているかのようだった。しかしそれが薔薇でないと言うことはすぐにわかった。毅然と、しかしゆったりと座って、閉じた目はまっすぐに彼の方を見ていた。あまりにも美しい17歳の公爵に、バーナムは自然と頭を下げた。

 革命は成功した。貴族制は打倒され、新たな、市民が支配する制度が始まった。それと同時にバーナムは都を去った。グレールと、マリーウェザーの遺体を引き取って。革命が一体何を変えたというのだろう? バーナムにはわからなかった。彼にとっては失ったものだけが、ただ大きく残った。
 1905年、2月。フェリセトリアの都はナポレオン率いるフランス軍によって占領される。大きく混乱した国内を収集するという名目で。自由は一瞬にして去り、他国人による支配が始まった。
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